今年も宮城聰がSPACの「ふじのくにせかい演劇祭」の記者会見でプログラムの説明を行った(関連記事はこちら→)。そのなかで、演劇祭のテーマを語るときの宮城の表情は、年を追うごとに険しくなっているような気がする。それは日本の舞台芸術を公共劇場がリードするような形になり出した現代が、同時に公共施設において政治的にリベラルなものが排斥されかねない状況になっているという危機意識がさせているのであろう。

 宮城はク・ナウカ時代からポリティカルな問題意識をもって作品作りをしてきた。ジェンダーと帝国主義の問題を重ね合わせ戦前の日本に時代設定を移した『王女メデイア』や、天皇を登場させた『トリスタンとイゾルデ』などク・ナウカ時代の作品、そして2015年の演劇祭で上演した『メフィストと呼ばれた男』ではナチスに協力した劇場の芸術監督の物語を通して、芸術家と政治という問題を扱った。

 さらに今年の演劇祭では、そういった問題意識を直接作品のモチーフとしてとりあげた『1940-リヒャルト・シュトラウスの家-』という作品を宮城が演出する。

また、一方で演劇界という世界においても、宮城=SPACは今年アヴィニョン演劇祭で法王庁中庭におけるオープニング公演を務めることになった。現代のヨーロッパにおける演劇のある種のヒエラルキーの頂点に立たされるわけだ。そこにある政治的な権力構造と宮城はどう対峙するのか。

 今回は「ふじのくにせかい演劇祭」の記者会見後の宮城に、芸術家とポピュリズム的な煽動政治の関係などについて話を聞いた。

「ふじのくに⇔せかい演劇祭2017」は、4月28日(金) ─ 5月7日(日)、静岡芸術劇場および舞台芸術公園、駿府城公園で上演。
「ふじのくに⇔せかい演劇祭2017」の公演情報はこちら =>
『アンティゴネ 時を超える送り火』アヴィニョン演劇祭公演は7月6日(木) ─12日(水)で上演。

■芸術が人びとに与える感動と、ポピュリズムが人びとを煽動する熱狂は違うのか?
「ワーグナー自身は反体制的な芸術家だったが、ナチスがその一部を利用することで、ある意味芸術家が意図しないにせよファシズムに加担することになってしまった」と言う宮城。リヒャルト・シュトラウスやルイジ・ピランデルロのようなファシズム国家にいて成功を収めた芸術家のことを考えると、彼らが時の権力者にすり寄るような態度を示したことが示すように「芸術は純粋なものだ」とは決して言えないし、宮城自身、そういったことを他人事とは思えないと打ち明ける。

 

■アヴィニョン演劇祭のオープニング公演をやることの重み
日本からも過去に1994年の日本特集で勅使河原宏演出の創作能や新宿梁山泊が招聘されたアヴィニョン演劇祭。だが今年のアヴィニョン演劇祭で宮城聰とSPACが登場するのは、法王庁中庭で行われるオープニング公演だ。世界の演劇人が注目し、上演が成功すれば世界中からツアーの声がかかり、失敗すると大きな痛手を受けかねない厳しい場ともいえる。そのプレッシャーのなかで、宮城が唯一救いを感じるのは、アジアの演劇がヨーロッパの演劇と同じ地平で評価されるようになる、その扉を開くきっかけになる、ということだ。

 

■『1940-リヒャルト・シュトラウスの家-』上演の経緯
これまでも宮城はオペラの演出などを手掛けているが、今年の演劇祭では静岡音楽館AOIとの共同制作で『1940-リヒャルト・シュトラウスの家-』という音楽劇を上演する。今回の作品はAOIの芸術監督で現代音楽の作家でもある野平一郎から「特定の都市や特定の時代をモチーフにした音楽劇はできないか」と提案されたことが企画のきっかけだったという。そこで宮城が思いついたのが、1940年にリヒャルト・シュトラウスが日本の皇紀2000年祝賀会の奉祝曲の作曲を引き受けたときをモチーフにすることだった。


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