浄瑠璃作者、歌舞伎狂言作者。本名杉森信盛、号を平安堂、巣林子(そうりんし)。
武士の家の次男として越前に生まれるが、父が浪人となったため一家ともども京都へ移り、一条家などの公家に仕えた。このおかげで近松は教養を身に付けることができ、20代後半には浄瑠璃を書き始め、宇治加賀掾(うじかがのじょう)のために書いた『世継曽我(よつぎそが)』(1683)によって作者としての地位を確立した。当時、作者は浄瑠璃を語る太夫の陰の存在として、一般の人には名を知られることはなかったが、近松は自身の名を作者として小屋の看板やつじつじの札に書き記し、浄瑠璃作者の存在を広くアピールしようとした。
84年、近松は大阪道頓堀で竹本座を旗揚げをした竹本義太夫と出会い、翌85年彼のために書いた『出世景清』で義太夫節による浄瑠璃を確立し、古浄瑠璃と当代浄瑠璃を画する歴史的な作品となった。1703年に京都から大阪に移り住んだ近松は、曽根崎天神森で起きた情死事件を脚色して『曽根崎心中』を発表、市井の出来事をすばやく劇化する世話浄瑠璃という新境地を開拓した。
『曽根崎心中』の成功から2年後、竹本座では義太夫が座元を竹田出雲に譲り、自らは浄瑠璃一筋に専念することになり、近松を座付作者として迎えた。これによって、義太夫、出雲、近松の3者の強力な体制が整い、次々と傑作が生まれるようになる。世話浄瑠璃では、『冥途の飛脚』『生玉心中(いくだましんじゅう)』『心中天網島(しんじゅうてんのあみじま)』『女殺油地獄(おんなごろしあぶらのじごく)』『心中宵庚申(しんじゅうよいごうしん)』などが、また過去の歴史的事件や伝承をもとにした時代浄瑠璃では、『傾城反魂香(けいせいはんこんごう)』『国性爺合戦(こくせんやがっせん)』『平家女護島(へいけにょごのしま)』『雙生隅田川(ふたごすみだがわ)』などがある。特に『国性爺合戦(こくせんやがっせん)』は、1715年11月に竹本座で初演されてから、3年越し、17カ月もの続く大入りとなり、竹本座の経営安定に役立ったという。
しかし、その一方で2代目義太夫の迫真に迫った語り口の心中物が評判となって、若者の心中事件が続発し、幕府は1722年に歌舞伎・浄瑠璃の心中物の脚色と上演を禁止した。近松は、その2年後の1724年11月に72歳で生涯を閉じた。生涯に浄瑠璃の時代物約100編、世話物24編、歌舞伎用脚本約30編を書き下ろし、そのいずれもがすぐれたドラマとして普遍的な内容を持っている。儒学者の穂積以貫(ほづみいかん)が、近松の聞き書きしたものをまとめた「難波土産」(1738)の中で、「芸というものは実と虚との被膜にあるもの也。……虚にして虚にあらず、実にして実にあらず、この間に慰が有たもの也」と記している。
今日では近松の作品は、世界の演劇の中で、シェイクスピアの作品と同様に価値のあるものとして、海外の研究者の間でも高い評価を得ている。
