1363-1443年。室町時代の能役者、また、能の作者、演技理論家。観世座2世の大夫。本名は観世三郎元清、秦元清(はたもときよ)ともいう。芸名は世阿弥陀仏、出家入道後は至翁善芳(しおうぜんぽう)と称した。幼名は鬼夜叉(おにやしゃ)。
父観阿弥が武家社会の中で能を発達させるため、世阿弥は少年のころにバサラ大名として名高い佐々木道誉のもとに出入りさせ、これがその後の世阿弥に大きな影響を与えることとなる。
1374年、12歳の世阿弥は観阿弥とともにはじめて京都で能を演じたが、これを見た将軍足利義満は観阿弥の至芸と世阿弥の美貌に魅了され、庇護の下に置くようになる。それまで尊氏は田楽を愛好し、猿楽(能)には目もくれなかったのが、この今熊野での演能によって猿楽を保護するようになる。これは、その後の田楽の衰退と猿楽の大成を決める歴史的な出来事であった。
将軍のもとで世阿弥は当時の最高級の文化人と交流し、武家貴族社会の教養を身に付けながら、鑑賞眼の高い貴族にもかなうような能を創作し演じていった。その美の目標とするものは、「幽玄」という言葉で表される高雅優艶の美であり、観客を魅了する「花」(舞台の魅力)を咲かせるテクニックを追及するものであった。
世阿弥は、演者としてだけでなく能の台本である謡曲の作者としても卓越した才能を見せ、「能の本を書くこと、この道の命なり」(「風姿花伝」)と主張し、多くの曲を新作、また古典を改作した。今日、世阿弥の作とされるものは改作も含めて50曲近くあるが、そのほかにも作品分析で彼の作とされるものは少なくない。『高砂』『老松』など神の祝福の能、『清経』『敦盛』『実盛』『頼政』などの修羅能、『井筒』『檜垣(ひがき)』などの幽玄能、『班女(はんじょ)』『砧』などの女の思いの結晶化、『融(とおる)』の透明化された情念など、その作品はいずれも精緻な構造を取っており、生者の前に死者が現れ物語をしたり舞を舞うことで、死後の時点から一生や運命を回想し凝縮して表現する「夢幻能」というユニークな表現をとっている。 また世阿弥は、自らの体験に基づいた能の理論を説いて多くの能楽論書を書いた。父観阿弥の教えを記した『風姿花伝』を皮切りに、『至花道(しかどう)』{『花鏡』}『風曲集(ふうぎょくしゅう)』などをへて、晩年の『拾玉得花(しゅうぎょくとっか)』『習道書(しゅどうしょ)』『却来華(きゃくらいか)』に至るまで、幽玄の道を究める高度の演劇論を展開した。
世阿弥の晩年には不明な点も多いが、不遇な生活を強いられるようになった。息子の元雅は、後醍醐清滝宮の楽頭職を世阿弥の弟四郎の子である音阿弥元重(おんあみもとしげ)に奪われ1432年に旅先の伊勢で客死。また世阿弥の晩年の芸談「申楽談義」を聞き書きしていた元能(もとよし)は出家してしまい、世阿弥自身、1434年に佐渡流罪となってしまう。数年後、佐渡から戻った世阿弥は、女婿である金春禅竹(こんぱるぜんちく)の元で余生を過ごしたという。
